日本地図


明治以降

 年号  表 題 日本地図  解 説 
 明治期  大日本輿地全図    明治8年にロシア帝国と締結された樺太・千島列島交換条約によってそれ以降の日本地図には樺太は掲載されず、千島列島が掲載されるようになります。図を見ると千島列島や樺太が大きく掲載されているので、明治8年以前の地図だと考えられます。
 これとほぼ同じ構図の図が沖縄県立図書館(大日本国細見全図)や明治大学図書館蘆(あし)田(だ)文庫(明治改正大日本輿地全図)などに保管されています。 
 
 明治期 大日本全図     明治期に銅版で印刷された地図です。
陸地のまわりに水色で海の色を入れ、見やすくしています。
 1880年8明治13年)  大日本全図    明治9年に出版され、明治13年に再版されたのがこの大日本全図です。樺太・千島交換条約締結後、千島列島を意識し細かく載せています。また北海道以北の地名は多くがアイヌ語で書かれています。
 この年、日本最後の仇(あだ)討(うち)ち事件がありました。明治元年、臼(うす)井(い)六郎は秋月藩(福岡県朝倉市)の父と母、幼い妹を自宅で干(かん)城(じよう)隊(たい)に暗殺されます。たまたま別室で寝ていた六郎は助かりますが、当時はまだ10歳でした。時代の流れから暗殺した干城隊は無罪、父は国賊扱いで減禄処分を受けます。
 明治6年に仇討ち禁止令が出され、それまで美談だった仇討ちが犯罪となりましたが、家族に直接手を下したのが東京上等裁判所判事の一(いちの)瀬(せ)直(なお)久(ひさ)と突き止めた六郎は、上京し明治13年のこの年、旧秋月藩黒田邸(東京都銀座六丁目)で開かれる碁会で一瀬を殺し仇討ちを果たします。その後、自ら警察に出頭し、裁判では終身刑。ただ、世間はこの事件を武士道の真髄を示す美談ととらえました。時代や法律は変わっても人の心まではまだ変わっていなかったのです。
 1882年(明治15年)  大日本全図    この地図が発行された明治15年11月、東京銀座でアーク灯が点灯されます、これは庶民が初めて見た電気の光りでした。
 その1月前の10月、この地図が発行されています。
序文には
「大日本帝国形勢
 我大日本ハ太平洋ノ西北亜細亜洲ノ東部ニ位スル帝国ニシテ中央ノ大地ヲ本洲トシ其餘許多ノ大小島ヲ合セテ一大国ノ形勢ヲナス(わが大日本は太平洋の西北、アジアの東部に位置する帝国です。中央を本州、その他大小の島を合わせて一大国を形成しています)。」と書かれ、帝国主義の雰囲気がこの頃すでにあらわれていることがわかります
 1886年(明治19年)  大日本全図    日本地図のまわりに府県管轄区郡名表(各県内郡一覧)や各地の名所図を載せていますが、図はこの地図の3年前に発行されていた大日本新撰道中全図を参考にしたものと思われます。
 図を比較すると出雲大社や日本橋の構図は同じ。 日本橋を歩く人もシルクハットに天秤棒を担ぐ姿が同じになっています。
日本地図の編集兼出版人は嵯峨野彦太郎、道中図は井上茂兵衛。出版人は違うので著作権は無視していたのでしょう、当時は売れる地図をよく真似ていたようです。 
 道中図は繊細に描かれていますが、この図はどちらかというとほのぼのとした図になっています。
 1886年(明治19年)  大日本明細全図    この地図は京都で発行された日本地図です。編(へん)輯(しゆう)者の樺(かば)井(い)達之輔は当時京都名所獨(ひとり)案内や改正新刻京(きよう)都(と)區(く)組(くみ)分(わけ)名(めい)所(しよ)新(しん)圖(ず) 、京都名勝一覽圖(ず)會(かい)、大日本道中記などを編集しています。
 地図は他にもたくさんの情報が載せられています。
 内国高山直立比較表では駿河富士山が一番高く信濃の御嶽山、加賀の白山が続いていますが、現代では富士山(3775m)の次は北岳(3193m)、そして奥穂高岳(3190m)です。御嶽山は3067mの14位、加賀白山は2702mの90位になっています。まだ日本全国の山は正確に把握されていなかったようです。
 

 1890年(明治23年)  大日本帝国全図    


表紙には郵便線路汽車線路電信第二版、東京小川尚栄堂と書かれ、郵便や汽車、電信の線路も載せていることを強調しています。
 
 1891年(明治24年)  新鐫 大日本全図    地図の北を少し東にずらして日本を配置し、まわりに北海道や沖縄諸島だけでなく東京の都市図、日本の江戸時代の藩名一覧、日本河流長程、日本山岳高程、また京都や横浜・大阪の風景、国後島や択捉島などを載せています。
 この地図が発行された明治24年、来日中のロシア皇太子ニコライ親王を滋賀県巡査が大津で刺し負傷させました。当時強大だったロシアとの関係をこじらすわけにはいかず、明治天皇はその2日後に皇太子を見舞い事態の沈静化をはかった事件がおこっています(大津事件)。
 1891年(明治24年)  大日本全図    日本地図のまわりに各都市図(東京・京都・大阪・神戸・長崎等)を配しています。日本地図にはオレンジを北海道や九州、関東や山陰を緑、山陽を青などにグラデーションして見やすくしています。
【縮 尺】 
 この地図の尺度は200万分の1です。長さはスケールバーといわれる縮尺を表した棒が表示されています。ここでは3本、1本目は日本陸里(1里約4km)、2本目は英国里則日本海里(1海里は1852m)です。3本目は佛国吉羅米突と書かれています。
 佛国は仏国フランスのこと、吉羅はキロのことだと思われます。米突はメートルのこと、つまりフランスのキロメートルということです。〔明治24年中央気象庁(現:気象庁)が気象台で気象観測の月報などに使用する漢字を作りました。そこにメートルを「米突」と当てていたためこの漢字が使用されています。その後、「米」一文字でメートルを表すようになっていきました。〕
 メートル法は18世紀末フランスで制定され、日本では明治18年条約に加入し、この地図が発行された明治24年に導入されています。ただ、まだ普及していなかったのでしょう、漢字も当て字がありわかりにくくなっています。

 1894年(明治27年)  日本全図    

この地図の表紙も特徴があります。表紙上部には遠くに山を望み、多くの家並みが並ぶ港町。港には帆船が浮んでいます。
 下部は富士山でしょうか、雪をたずさえた山を望む図。菊と桜を添えて地球儀や三角定規、ペンなどを載せています。
 真ん中に日本全図の文字、赤をバックにとても目立つ構図になっています。
 この時代、各地で鉄道が走り出し、近代化の波が押し寄せています。また、日本全図の中に世界地図も描かれるなど、国民の視野も広がっていたようです。
 1899年8明治32年)  大日本明細地図    明治27年、日清戦争が始まり日本が戦いに勝利します。清から遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲され日本の領土としますが、三国干渉により明治28年(1895)遼東半島を清に返還しなければなりませんでした。その4年後に発行されたこの地図にはその事実として遼東半島を旧占領地と赤で記されています。
 また、台湾は新領地として地図中に記載しています。地図右下には縮尺を変えて北海道より大きく載せ存在感を出しています。
 その結果、日本で一番高い山は富士山を抜いて台湾の新高山(現:玉山)と紹介されています。
 昭和16年(1941)12月、日本海軍は真珠湾攻撃を開始。大本営より機動部隊に対して発信された暗号が「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)1208(12月8日)」でした。当時の日本最高峰を登ることと、日本の歴史を変える程困難で重要な任務と気持ちを合わせた意味もあったのではないでしょうか。

 1911年(明治44年)  最新大日本地図    日露戦争で勝利して得た北緯50度以南の南樺太,台湾、千島列島が記されています。この年、韓国初代統監に伊藤博文が就任しますが、10月ハルビンで暗殺されます。2年後の明治43年に日韓併合条約を結び大韓帝国を併合するなど、時代がめまぐるしく動き出し、地図も書き換えられる事が多くなっていきます。